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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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倶利伽羅峠

                               富山県 浦上キリシタン関連史跡

氷をのこぎりで切りながら浦上キリシタンが通った道


明治の世になり開国されたものの、まだキリスト教禁令の高札が下ろされていなかった頃、長崎の浦上村に住んでいたキリシタンたちが自分達の信仰を明らかにしました。彼らは政府によって日本各地に配流され、棄教するようにとの説得と拷問を受け、600名余りの人が亡くなりました。

配流された3000名以上の浦上キリシタンのうち、最も遠くに流されたのが、富山に行かされた者たちで、妊婦も子供も雪の中を歩かされ、寒さで凍った氷をのこぎりで切りながら倶利伽羅峠を越えたことが記録に残っています。


倶利伽羅峠


旧北陸道の倶利伽羅峠は、加賀と越中との間に位置することもあり、古くから合戦が行われた場所です。

古くからの難所でしたが、他に道がなく参勤交代にも使われたので、近隣には宿場や茶屋が設けられ賑わいました。

1878年に天田峠が開削され、人の流れが倶利伽羅峠から天田峠に移行し、現在は峠の一部が倶利伽羅公園となっています。


道の駅「倶利伽羅源平の郷」にあった説明板

説明文

地図

年表

倶利伽羅峠での合戦


倶利伽羅峠を舞台としてなされた合戦としては、源平の戦いの明暗を分けた倶利伽羅合戦が有名です。

また1488年の一向一揆の際には、一揆群が峠に砦を築きました。1576年、一向一揆軍は上杉謙信軍と倶利伽羅峠の龍ヶ峰で激突。多くの死者を出し、上杉軍が一揆軍を制圧しました。

さらに龍ヶ峰では1584年、前田利家と佐々成政(さっさなりまさ)が激戦を戦いました。二人は共に織田信長に仕えた武将でしたが、信長亡き後利家は秀吉方に、成政は家康方につき、佐々軍は倶利伽羅峠に出城を築きました。最終的には秀吉が乗り込んで成政を倒しました。

秀吉が亡くなり徳川幕府が開かれてからは、加賀藩の前田家は徳川家に忠誠を尽くし、諸藩に先駆けて参勤交代を行い、北陸道を整えました。道の拡張が行われ、近くに宿場町が形成されたので、倶利伽羅不動への参詣客ともあいまって、街道沿いは大いに賑わったと伝えられています。

倶利伽羅公園


江戸時代が終わり、開国直後の日本に来た宣教師が大浦に天主堂を建てると、そこに迫害時代をしのいだ信徒達がやってきました。

「信徒発見」という宗教史上の奇跡を起こした日本のキリシタンは世界的に有名になりましたが、彼らの運命は大きく揺さぶられることとなりました。

明治政府は浦上キリシタンを日本各地の22藩に配流することを決め、信徒は慣れない土地に行かされ、牢に入れられました。

峠の景色


住んでいた地域などによってグループ分けされた信徒達は、長崎の大波止から船に乗せられ各地に下ろされ、そこからは徒歩で収容所に向かいました。

金沢と富山に流された信徒達は、共に能登半島の七尾に上陸しました。雪が降っていたので止むのを待ちましたが、3日経っても降り止まず、そのまま出発しました。

富山に流された人々は、凍った雪道をのこぎりで切りながら進み、ここを通って行きました。

 
 現地への行き方
あいの風とやま鉄道石動駅から徒歩約15分。倶利伽羅県定公園の住所は富山県小矢部市埴生です。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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